尾仲村の九郎左衛門


江戸時代のはじめころ、尾仲村(現在の篠栗町大字尾仲)に住んでいた九郎左衛門と言う人のお話です。

この村(尾仲村)に、近年まで九郎左衛門と言う農夫が住んでいました。
彼の実父は太郎左衛門と言い、やはり農夫でした。
九郎左衛門は、元和4年(1618年)戊午の歳に生まれました。彼は幼い頃博多の魚商人の養子になりましたが、養父が若くして亡くなったので実家に戻り、その後商人になり、山村や漁村に行商に出かけ、また自ら田畑も耕していました。
いつも倹約して仕事を良くしたので、後に多くの財産を持つようになりました。しかし、朝夕の食事では、麦・粟・稗などの雑穀を食べ、お米は食べませんでした。衣服もとても粗末で古い木綿やボロ布を着、生活全般はとても質素なものでした。
自分が住んでいる村やその他の村人たちにお米やお金を貸し、年末までに返せる人には利息を付けて戻してもらいました。しかし、その人がまだ必要であればまた貸しました。しかし困窮している人には催促しないでそのまま貸し与えました。
昨年の寅の年は凶作でしたので、自分の村や周囲の村の飢えている人には、もみを三十俵ほど与えて救いました。道端を歩いている時に、五穀(米・麦・粟・稗・豆)の穂が溝に落ちているのを見つけると、溝を堰き止めたり、また深い所にあっても拾い集めたりして、貧しい人に与えました。
また、盲人が夕方泊まる宿を借りあぐねて困っているのを道で見かけたら、我が家に連れて帰り、無償で宿を貸し、食べ物も与えました。
日頃は贅沢をしないで、無用な物には一文も使わなかったそうです。
昨年伊勢神宮にお参りし、歌仙を沢山調べて帰ってきた際、尾仲村やその他の神社に自分の名前も書かずに奉納しました。その時神社の人にも何も言わず黙って掲げました。
また、参宮の時、大神楽(太祖神楽か?)にもお金を寄付し、末社にもたくさん奉納しました。
高野山に登ると、実父母や養父母の為に毎日拝み、また親戚十余人の為にも毎月拝み、お金をたくさん奉納しましたが、下山してもこのことは一切話しませんでした。後日、高野山から来た使いの僧がそのことを村人に告げました。
博多石堂の選択寺は、九郎左衛門養父母のお墓があるところなので、そのお寺が改修工事をする際、天井をはりかえ、畳を敷きなおし、仏具などを寄進したいと住職に申し出たあと、それらの代金を全て納めましたが、自分の名前は言わなかったので、住職は誰が寄贈したかは判りませんでした。着衣などもとてもみすぼらしく見えたので、不審に思っていたところ後日こういう人物だと判ったそうです。
養父母の為にしたことであろうと、人々に少し噂を流してみましたが、そのことを知る人は誰もいませんでした。後日、人々はそのことを偶然知ったそうです。
また、郡中の村々の寺社にも、自分の財産を使って寄進することも多かったそうです。
九郎左衛門は毎年、衣服を新調はしますが、自分はいつも古くて破れている物ばかりを着ていました。家が貧しく、衣服に不自由している人がいれば秋冬に新調した衣服を取り出して貸し出し、春が来て暖かくなれば戻してもらい、洗濯をして、また次の秋冬の為に用意をしました。そのような貧しい人のなかにも、衣服を持たない人がいれば、そのまま与えて取り戻すことはありませんでした。
篠栗へ通じる大通りや、村の道に水が溜まり行き交う人が不便に思っているのを見かけると、人に知られないように飛び石を置き、ところによれば板をも渡していました。この他、このように人を助けた事はたくさんありましたが、善いことをしても自分の名前を言わなかったので、詳しいことは良く知られていませんでした。
元禄4、5年(1691~1692年)の頃、正月二十六日に大風が吹き荒れて、尾仲村の甚九郎と三七という両人の家が吹き倒され、困っているのを見て、米を一俵ずつ与えました。また堅糟村にある庄屋の小作人の家も倒れていたので、米を持っていかせました。
このような貧しい人々に、米を少しずつではあるけれども、毎年与えていましたが、自分の行いを言わなかったので、詳しい事は良く知られていませんでした。
自分の村やその他の村に毎年お米を貸していましたが、この年は凶作でしたので返済が出来ないだろうと思い、銀一貫五百目余りと米五十俵余りを渡しました。また、このことも人には言いませんでした。
元禄9年(1696年)、尾仲村の農民三、四人と他の村の農民二、三人に冬の頃、衣服が不自由していたので、木綿の綿入れを一つずつ与えました。
また、飢える人を見ては、ご飯を与え、その上お金も少しずつ与えていましたが、年々それは増える一方でした。尾仲村の産土の社(老松神社か?)を造営する際、銀五十匁を奉納しました。
普段から昼夜家業に精を出し、その上倹約もしていたので、財産は多くなりましたが、実父と養父が昔借りていた物や掛けで買った品物の借金が多かったので、方々にてその借し主や売り主を聞き出し、自分の財産から出して残らず償って返していきました。そのうち既に亡くなっている人にはその関係者を捜し出し、全てを返しました。
ある日、九郎左衛門は、村中の若者にこう言いました。
「田畑を耕していないとき、また雨天や大雪の時、更に夜中や外での仕事が出来ないときは、縄を編んで集め置き、それを売って小銭を稼いだりして、自分が若いときはすでにこのようにしていました。今は、年老いて外での仕事が出来ないので、いつも縄ばかりを編んで小遣い稼ぎをしています。みなさんもこのようにしなさい」。
これを聞いた村中の人たちは、もっともなことだと思い、九郎左衛門のすすめるとおり若い人も年とった人も、暇なときは縄を編み、博多の縄問屋に売ったので、生活費のたしになったそうです。
「村中で身持ちの良い頭百姓の子どもも、みんなと同様に博多や福岡に出て、肥やしを買って持ち帰り、田畑を一生懸命耕しなさい。私も若いときにはそうしましたよ」
とも言いました。
これを聞いた人たちは、九郎左衛門が裕福になったのは、そのように一生懸命働いたおかげだと思い、頭百姓の子どもをはじめ、みんなも同じく博多や福岡へ行って、肥やしを買って帰り、耕作の助けにし、九郎左衛門に習ってその他のことにも一生懸命精を出しました。
そのおかげで、元禄の中頃には、すでにこの尾仲村の各農家は、昔から比べて裕福になったそうです。
九郎左衛門には息子がいなくて、娘が三人いました。婿も三人いましたが、普段は婿のところに行って、接待を受けることはありませんでした。
雨乞いや風祭などのために、村人が踊りを踊っているときには、見物人は多く集まりますが、九郎左衛門はこのような場所に行って、見物などもしたことはありませんでした。
いつも粗食で美食はせず、贅沢などもしないで家業を一生懸命していたので、若いときから元禄11年(1698年)までの八十余歳になるまで薬を一服も服用せず、病気などもしないで、健康に過ごしていました。2、3里の道も、1日のうちに簡単に行き来していました。

ここに書かれた物語は、元禄11年に、尾仲村の庄屋頭百姓が役人に書いて出したものです。
九郎左衛門は、元禄14年(1701年)に八十四歳の時、尾仲村で病気により亡くなりました。

前記の物語は、貝原益軒が江戸時代に書いた『筑前國続風土記』に掲載されていたものを現代語訳したものです。



貝原益軒(1630~1714年)

江戸時代の本草学者であり、儒学者でもあります。福岡藩に仕え藩命により『黒田家譜』を編纂しました。また、藩内の歴史・自然・史跡名勝・民俗などを自らの耳と足により収集し、『筑前國続風土記』を編纂しました。また、代表的な著書には『大和本草』、『養生訓』などがあります。

『筑前國続風土記』

貝原益軒が、元禄元年(1688年)から宝永6年(1709年)にかけて編纂した江戸時代の代表する福岡藩内の地理誌です。完成時、益軒は既に80歳になっていました。


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